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安定寺(あんじょうじ)
浄土真宗のお寺である。天応めぐみ幼稚園を運営するお寺であり、天応町で唯一のお寺でもある。境内には樹齢300年の大銀杏(おおいちょう)が生えている。


天応めぐみ幼稚園の前の坂道をずっと上るとたどり着く。坂がきつく、距離の割にお寺が遠く感じられる。私が幼稚園在籍の頃は、釈迦の誕生日などにお寺にあがり、いろいろ教わっていた記憶がある。

天応町で年末年始に除夜の鐘が聞こえてきたら、それはこのお寺からの鐘の音である。



歴史的に見ると、宝徳三年(1451年)に真言宗の登光寺として創建され、天正十年(1582年)に浄土真宗に改宗し安定寺となったと「第一回市町村現勢調査簿」(明治42年編集)に書かれているらしい。室町時代中期に創建したお寺であり、その歴史的価値は大変高いと思われるのだが、天応町内をのぞき知名度が大変低いのが残念である。

公式サイト:天応めぐみ幼稚園
公式案内サイト:天応名所案内
野間隆則の墓(のまたかのりのはか)
戦国時代に毛利氏に敗れた国人野間隆則の墓である。


天応町はもともと野間氏の支配地の一部であったが、野間隆則は毛利元就との戦いに敗れ、この付近で切腹して果てた。

野間隆則の墓は天応中学校へ上がる道の脇に、ひっそりと立っている。
腹切岩(はらきりいわ)
野間隆則は毛利元就に破れてこの地に逃げ、倒れた愛馬の腹の中に潜って隠れていたが、ついに敵に見つかって、観念してこの地で切腹して果てたという。


岩は馬が横に倒れた形にそっくり…であったのだが、10年みないうちに岩の一部(馬の首の部分)が砕かれ、岩の上には何かの作業道具とおぼしきものが散らばっていた。確かに文化財としては登録されていないが…もっと大切にしてほしいものである。

野間隆則の墓から、安定寺に向かう道の脇にある。



2008年1月現在、腹切り岩の周りはコンクリートで固められ、駐車場になってしまった。腹切り岩自体はかろうじて残されているが、すでに馬の形を判別するは困難である…。
天応中学校(てんのうちゅうがっこう)
天応校区の中学生が通う、呉市立の公立中学校である。略して天中(てんちゅう)と呼ぶ。


高台にあるため、天応のどこからでも見える。逆に中学校から天応町中が見渡せる。高台にあるため、通うのが結構つらい。

中学校の校区は小学校の校区と一致するため、クラスのメンバーは小学校とほぼ変わりがないのが特徴である。

公式サイト:天応中学校
天応山(てんのうやま)
天応駅の背後にそびえる小高い山である。


天応町中心部と天応駅(塩屋町)を隔てる山であったが、呉広島道路工事に伴いこの山も切り崩された。のり面の向こうに残る山頂に、天応神社がひっそりとたたずんでいる。神社といっても壊れかけたほこらがあるだけで、今では訪れる人もほとんどいないようである。

ここは古代に神武天皇がお出でになった土地といわれ、この山を天皇山と名付けようともしたが、それでは恐れ多いということで天応山となった。大屋村が町制を施行するにあたり、この山の名前をとって天応町と改名したという。

2012年1月、久々に天応山に登ってみると、祠の前の壊れかけた建物が取り除かれていた。神社の周りには墓地がたくさん作られた模様。



公式サイト:天応名所案内
観音荘(かんのんそう)
天応-焼山線の途中にある、風格のある建物である。


「呉及び其の近郷の史実と伝説」によれば、これはセーラー万年筆の創業者、阪田斉次郎氏の別荘なのだそうである。
子供の時分より、あの建物の門が開いているのを見たことがない。

参考リンク:セーラー万年筆

上記ホームページにある創業者名(阪田久五郎)と「呉及び其の近郷の史実と伝説」にあった名前(阪田斉次郎)が異なる…。本の内容が疑わしくなってきた…。
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天応町の地図
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