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天応町とは
広島県呉市に属し、呉市の中でも北西の端に位置する。一歩北に出るとそこは安芸郡坂町(小屋浦地区)である。


一方を海に面し三方を山に囲まれた小さな町で、海に近いから漁業が盛んかといえば必ずしもそうではなく、どちらかというと広島と呉という二大都市への労働力供給地になっている。(もちろん漁業もやっている。念のため。)

広島と呉という二大都市に挟まれているため交通は至便で、人口五千の田舎町でありながら、私が町にいた頃は自家用車の必要性を感じたことがあまりない。
天応町の歴史
戦国時代は矢野(広島市安芸区)を拠点とする有力国人野間氏の支配下であったが、野間隆則は毛利元就との戦いに敗れてこの地で切腹し、以後天応町付近は毛利氏の支配下に入る(1554年)。
毛利氏が関ヶ原の戦いに破れて周防に移ったあとは、福島氏(1601年)、浅野氏(1619年)と安芸の国守が入れ替わるが、江戸時代を通じて見ると安芸の国は浅野氏の統治下にあったといえる。
浅野氏の時代に編集された地誌「芸藩通志」には「大屋村」という名称が現れており、その記述から大屋村(天応町の旧名)という地名が戦国時代から続いていたことがわかる。

明治時代に入り明治22年(1889年)、市町村制が施行されたのに伴い、安芸の国の大屋村は安芸郡大屋村となった。

その後昭和26年(1951年)に「天応町」に改名した。天応という地名は天応の東にある天応山からきている。ここは古代に神武天皇が行幸なさった土地といわれており、天皇陛下が行幸なさった山で天皇山、いやそれでは恐れ多いということで天応山になった。(「呉及び其の近郷の史実と伝説」より)

昭和31年(1956年)、呉市と合併して呉市天応地区となり、今に至る。

なお、上記歴史はBOSS_が天応の本を読んで頭の中にある記憶をたどって書いたものであり、内容が多少間違えているかもしれないことを付記しておく。
なぜこのようなページを?
ネットサーフしていて天応小学校天応中学校のホームページがあることを知り、でも天応町のホームページがないことに気づき、何となく作ってみたくなった次第である。(呉市のホームページに含まれているともいえるのだが、天応地区に関するコンテンツは少ない。)

写真はすべて2004年1月に撮影されたものであり、情報が古いことをあらかじめ断っておく。
地図索引
天応町の地図
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