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芸藩通志 |
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芸藩通志(げいはんつうし、旧字体で藝藩通志)とは、文政八年(1825年)、頼杏坪(らいきょうへい)がまとめた安芸、および備後半国(浅野氏の領国)の地誌(地域の地理的特質について記した書物)である。1960〜80年代に口語訳されて出版されたものが図書館などで閲覧可能である。
※古本は1セット10万〜15万円程度で市場に出回っている模様。(参考リンク:amazon.co.jp)
この芸藩通志は歴史書ではないので数字や状況が地域別に淡々と並べられていて、ほしい情報がかなり検索しやすい。私はこの中から、安芸国安芸郡大屋村(天応町の旧名)に関する記述のみピックアップした。これを見ると当時の大屋村が少し浮かび上がってくるかもしれない。
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大屋村に関する記述 |
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概略
「大屋(おほや)村 廣十八町、袤十九町餘、東南北は高山相なり、西は海面斤鹵なり、一川西に流る、民農の外、稍漁樵を雜ゆ」
戸数など
「大屋村 百二十二戸、六百六十三人 僧一人、醫者一人、瞽者二人、屠者三十六人」
「大屋村 廿三町五反八畝六歩、二百七十五石二斗二升五合」
「大屋村 牛三十四隻、船 十六艘、七十石以下」
山川
「天狗崎山 大屋村にあり」
※「姫摺瀧(ひめすりたき) 燒山村にあり」
寺社
「八幡宮 大屋村本クにあり、文龜二年壬戌、勸請といふ」
「道場 大屋村にあり、天正十年、僧裕順開基」
古城跡
「天狗城 塔岡 並に大屋村にあり」
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インチキな解説 |
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「大屋村 廣十八町、袤十九町餘、東南北は高山相連り、西は海面斤鹵なり、一川西に流る、民農の外、稍漁樵を雜ゆ」
大屋村は広さ1.96km、長さ2.07km余りで、東と南と北は高い山が連なり、西は海が迫っている。(海面斤鹵の意味がよくわからないがこんな感じだろう。)一本の川が西に流れる。住民は農民のほか、一部漁師と木こりがいる。
「大屋村 百二十二戸、六百六十三人 僧一人、醫者一人、瞽者二人、屠者三十六人」
大屋村は122件の家があって663人が住んでいる。僧侶が1人、医者が1人、盲目の人が2人、家畜を殺して生計を立てる人が36人いる。(注:浄土真宗をのぞき、仏教では動物を殺してはいけません。確か。)
「大屋村 廿三町五反八畝六歩、二百七十五石二斗二升五合」
大屋村は23.38haの広さを持ち、275石2斗2升5合の収穫がある。
「大屋村 牛三十四隻、船 十六艘、七十石以下」
大屋村には牛が34頭、船が16艘ある。70石以下…って何がだろう。
「天狗崎山 大屋村にあり」
天狗崎山という山が大屋村にある。天狗城山じゃないんですか。
「姫摺瀧 燒山村にあり」
姫摺の滝(現深山の滝)が焼山村にある。当時からやはり天応にはないらしい。
「八幡宮 大屋村本クにあり、文龜二年壬戌、勸請といふ」
八幡宮(田中八幡神社)が大屋村本郷にあり、文亀二年(1502年)、(熊野村の八幡宮より)分霊をこの地に移して祭ったという。
「道場 大屋村にあり、天正十年、僧裕順開基」
道場(安定寺と思われる)が大屋村にある。天正十年(1582年)、裕順という僧侶が寺を建立した。
「天狗城 塔岡 並に大屋村にあり」
天狗城跡、塔岡城跡がともに大屋村にある。…らしいのだが、塔岡城跡とは一体どこなのだろう。
…以上が大屋村に関する記述のすべてである。いや、記述が少ない。
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大屋村の地図を眺める |
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芸藩通志はまず安芸の国が8つの郡からなっていることを説明している。そのうち安芸郡は現在の広島市中心部から呉市の西半分くらいまでを含む範囲であり、大屋村はその中に含まれることになる。
地図は結構いびつな形をしているので、現在の地名と比較しながら場所を想定していくしかない。大屋村で現在も残る地名といえば、以下のものくらいだろうか。
- 天狗城跡(地図左下)
- エボシ岩(地図右下)
- 八幡(田中八幡神社)(地図中央)
あとは現在の地名と結びつけが可能なのが以下のものと思われる。
- 道場(安定寺)(地図右上)
- 観音石(観音荘)(地図中央上)
- 福ノ浦(福浦)(地図左下)
- 塩屋(塩谷:天応駅付近)(地図右下)
これらは昔からあったもの、といえそうだ。
あれ、天応神社は?
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一次資料と二次資料 |
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私は天応町のホームページを作るにあたり、「呉及び其の近郷の史実と伝説」を参考にしていたのだが、そこで引用してある芸藩通志の文以外に芸藩通志で記述してある内容がないか気になり始め、ついに東京都中央図書館に駆け込んで現物を見るに至った次第である。
結果、二次資料(「呉及び其の近郷の史実と伝説」)で引用された文で芸藩通志の大屋村の記述をほぼ網羅していることを確認した。芸藩通志での大屋村の扱いは、実に少ない…。
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